10歳の時、母が弟を連れて姿を消した。何があったのかよくわからないが、父は粗暴な人だったから殴られたりすることに愛想が尽きたのかも知れない。とにかく弟だけを連れて出ていった。あたしはなぜおいていかれたのか分からなかった。自分が一緒にいられないような男のところへ、なぜあたしだけを残していくことができるのか、ずっと、その「なぜ」にとらわれてあたしは生きてきた。

　父は、父と呼ぶのも許せないあの男は、そのままその町に留まることを恥じて町を出た。何か思い出せないが腕のいい職人だったようで、町を出ても受け入れてくれる場所があったみたいだ。

　そのあたりからあたしの記憶はあいまいになる。思い出したくないことがたくさんあったのか、少しでもその記憶に繋がる感覚が浮かぶと頭の中が苦しくなる。今も、吐き気を抑えて混沌の中から言葉を拾っている。

　結局あの男はあたしを捨てることにした。ただ捨てるだけじゃなく、売り飛ばすことにしたんだ。

　あたしは、そのあたりではもう全ての感情を失った生き物のようになっていた。もらわれて、別の国に行くのだと教えられ、父からは早々に引き離されたが、仲介人のような男が、もうこの国に戻ってくることはないかも知れないから、何か一つだけ、したいことがあれば言ってごらんと、言ってきた。

　したいこと？何もないよ。子供だけど、もうわかる。あたしにはなんの希望もない。一つだけお願いを聞いてくれるならこの心がもう何も感じないようにしてほしい。それができないなら、短い間だけでも自分の不運を忘れさせてくれる場所に行きたい。

　そんな場所は一つしかなかった。もう、そこには誰もいないけれど10歳まで暮らしたあの海辺の町、いろんな植物の香りが潮風に混じる素敵な匂いの場所。

　男はその願いをかなえてくれた。日本を出る前の日、半日だけあの町に連れて行ってくれた。自由に町を歩き回り、自分の住んでいたアパートを見に行き、海岸で大好きな潮風の匂いを嗅ぐことを許してくれた。あの花の咲く季節ではなかったけれど、香りの記憶を繋ぎ合わせて、あたしは心にあの匂いを押し留めた。

　あの国に行ってからのことはほんとに思い出さない。大事にされ、結局逃げてもどこにも行き場はないと繰り返し言い含められ、17までその金持ちの家で暮らして、お払い箱になった。あの人もかわいそうな人で、子供にしか反応できないらしかった。日本では生きていけない人だったみたい。

　そのあとはカジノで働くことになった。そのうちにカードも、ルーレットも上手に扱えたから、自分を買い戻すことができた。

　だけど、自由になったとしても何が変わるというの？心のダメージで不自由になった身体を抱えて、同じように毎日ルーレットにボールを投げ落とすだけの生活。友達も恋人もいない暮らしに現れたのがシュウヤだったの。

　匂い。彼の匂いがとても好きで、首筋の汗とかをなめてしまう。引かれないか心配しながら、汗に混じる花の匂いを嗅いでしまう。なんでだろ、似てる気がするんだ、あの町に吹く風の匂いに。一度だけそのことを聞いてみた。

「なんの香水を選んでるの」って

　そしたら、

「なんだかよくわかんないんだけど、似てるんだよね。おれの故郷に咲く花の匂いに。」

「それ、なんて花？」

「名前知らないんだ。でも、鮮やかな赤で、すごく芳醇で、果物みたいな甘さと柑橘系の混ざった香り。」

　どきっとした。それでも、バカなあたしはその時気がつかなかった。ただの偶然だと思ってその話を聞き流してしまった。