外食ニュース
記事への評価
取材・執筆 : 阿野流譚 2023年9月20日
今の飲食店は食事が主役だが、80年代は酒、インテリア、スタッフが醸し出す色気がありました。そんな時代の飲食店を舞台にした昭和の匂いを醸す官能ロマン小説を連載します。飲食業界出身の新人小説家、阿野 流譚氏がフードリンクニュースのために書き下ろしてくれました。ニュースとは異なりますが、ほっと一息入れてお楽しみください。
『おやすみミュスカデ』
~① BAR山羊の歌~
目が覚めるとその女はもういなくなっていた。時計は午前4時に近づいていて、部屋に帰ってからの言い訳をかなり複雑にしないと美国に納得してもらえない時間になっていた。またやらかしたなと思った。おれは酒に弱すぎる。
ゆうべの女はいつものバーで拾った。「山羊の歌」はしっとりとした大人の店だ。決して混んでいるわけではないのは少し単価が高いから。今では少なくなったオーセンティックバーで、注文したカクテルが提供されるまで15分もかかる。その時間を待つことができない客はここのリピーターになることはないので、30席以上ある店なのに廊町がピークを迎える時間でも、せいぜい客は2〜3組だ。おれが、女が注文するようなカクテルを舐めながら時間を潰すにはちょうどいい店というわけだ。
どういうわけかこの店には一人で飲みに来る女が多い。理由はいろいろあるのだろうが、一つにはいい感じのバーテンダーが揃っているからかもしれない。女にだって疼きはある。なんとなくむらむらする日に、いい男のバーテンを眺めながらゆっくり飲む酒でその疼きをお腹の底に流し込むのかなと、おれは思っている。そんな感じなら声をかけてあげるのは決して非礼にはあたらないだろう。
ゆうべの女にはこんなふうにアプローチした。決して下品にならないやり方には仕掛けがある。「山羊の歌」とおれにはちょっと深い関係があって、おれが店にくる女を口説くのに、ここのバーテンたちは協力してくれる。もちろん誰に対してもするサービスではなく、とてもスマートでさりげなく、女に声をかけるのをアシストしてくれるのだ。
ゆうべの女は10時過ぎに店に入ってきた。一番奥の席に座っていたおれから近くもなく遠くもない、真ん中あたりの席に座って、
「白ワインをください」と、割とはっきりした声で言った。たしか、今夜のグラスワインはしっかり辛口のリースリングがオンメニューしてあった。ベタベタしない酸の強いやつだったと思うが、ちょっとイタズラをしたい気持ちが沸いた。コースターにミュスカデと書いてそっとチーフの桜井に渡した。どんなワインが在庫してあるかは把握している。桜井はグラスに注ぎかけたリースリングをコールドテーブルに戻し、ワインクーラーにガツガツ音を立てて氷を詰め始めた。
「新しいボトルを開栓することにになりますので少々お待ちいただけますか」
女は少し訝しそうに首を傾げた。こういうのがおれはたまらなく楽しい。たかがグラスワインを注文を受けてから冷やすバーなんてありえない。たとえ本当に白ワインが口開けであったとしても冷蔵庫で冷やしておく。
不自然さに女が機嫌を損ねる前に、桜井はタネ明かしをする。その気配を察して、おれは席を立ってトイレに向かった。桜井はワイングラスを灯りに透かして確かめながら
「ミュスカデのお好きなお客様がおられまして。その方がお見えになる時には必ずご用意することにしております。ところが、そのお客様はあまりお酒がお強くなくて」
本当に楽しそうに、桜井はこの話をする。何度も繰り返した話なのに、小さな笑いまで浮かべながら。
「せっかくお出ししたボトルなのにお飲みになるのは一杯だけなんです。フフッ」
「そうなると、どうなると思われますか?残りのお酒。答えは、私のお腹の中に入るか、グラスワインとして他のお客様に提供して、お代金として私の懐に入るか、それとも...」
そこまで話したあたりで都合よくおれは登場する。
「そんなズルは許せないな。もし、それがおれが注文することになるはずのミュスカデのクレッソンかル・パレかシャトー・テボーなら...」
そこまで言って、おれは初めて女の目を、しっかり見て、微笑みながら
「一緒に飲んでいただけませんか?」
桜井が、正解を告げた
「シャトー・テボーです。」
女がふきだして、ゲラゲラ笑った。
<続く>
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