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飲食店経営者レポート

飲食店経営者レポート

2018年12月04日(火)14:23

お好み焼き店で修業したことが「接客」の原点。

連載:第2回「サービスを磨く」というキャリアアップの道(前半)

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取材・執筆 : 千葉哲幸 2018年12月4日

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 本連載の第2回は、S1サーバーグランプリ第11回全国大会(2016年3月)で優勝した中尾和夫氏である。当時の中尾氏は株式会社ダイナックが展開する「魚盛」飯田橋店の店長代理という肩書であった。

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第2回前編 中尾和夫氏 
第11回S1サーバーグランプリ優勝(2016年3月)
当時:株式会社ダイナック「魚盛」飯田橋店店長代理
現在:株式会社ビースマイルプロジェクト監査室室長

■「熟練」を感じさせ「発見」のあるロールプレイング

 筆者は中尾氏のロールプレイングを会場にいて見ていたが、中尾氏のそれには「熟練」を感じた。ファイナリストの中で最年長の様子であり堂々としていた。声優のようなマイルドかつよく通る声でお客様役に語りかける。難しいシチュエーションになると筆者は中尾氏の対応の仕方を予想するのだが、それがことごとく外れた、しかもこちらが安堵するほど上手にまとめてしまう。さまざまな対応の仕方に「こう来たか!」と感心したものである。それは、着地の仕方に対しての「発見」である。

 S1に出場するための鍛錬として、中尾氏は特別のことは一切しなかったという。「普段通りのことを行なえばいいじゃないか。それで駄目ならしょうがない」このような感覚であった。

 ただ、過去の大会のDVDを視聴したり、同社の社員でS1第8回、9回のファイナリストである禰冝田賢二氏から、会場の雰囲気を教えてもらうなどを行った。ただ、3分間のスピーチについては、会場の人たちに気持ちよく聞いてもらえるように、感情を込めながら淀みなく言えるように練習を重ねた。

 最後に行うスピーチのお題は「サーバーとして感謝している人は誰ですか」というもの。

 中尾氏は、携帯電話から亡くなった両親に電話をした。電話がつながり「おふくろですか? オレ、オレオレオレ......」とオレオレ詐欺を疑って電話を一旦切られる笑いの場面をつくり、その後、再度電話がつながってから、じゅんじゅんと感謝の気持ちを伝えた。そして、会場に招いていた、二人の娘と妻に感謝の気持ちを、名前を挙げて伝えた。

 このように感謝の原点は、両親と家族であるということを印象深くまとめ上げた。中尾氏が会場に家族を招いた理由は「自分が優勝するという確信があったから」という。名前を挙げたのは「大会の様子がDVDで残ることを知っていたから」。サーバーとして自ら鍛えてきたことに絶対的な自信を抱いているのであろう。

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S1サーバーグランプリ第11回全国大会(2016年3月)で優勝。

■「接客」の楽しさを知り、不動産業で活躍する

 中尾氏は1962年3月生まれ。松田聖子氏と全く同じ生年月日である。このことで救われたことが多々あったという。後述するが中尾氏は十数年間不動産業に就いていた。お客様に営業に赴くと、営業マンの星を見るお客様がたまにいた。

 「あなたの星を見させていただいていただけませんか?あなたから買うかどうか、それを見て判断したい」。そして生年月日を伝えて、それが松田聖子氏と同じだと伝えると、「そうなんですね。あの人は転んでもただでは起きない人だから、あなたから買います」ということになることが常だった。

 生まれ育ったのは大阪・心斎橋。実家は大阪のど真ん中で写真館を営んでいた。高校1年生ときに、お好み焼きの繁盛店でアルバイトを始めた。ここで接客の楽しさを覚えた。高校卒業後は同店で店長として働いていた。

 20歳で東京にやってきた。東京では千駄ヶ谷の友人宅に居候をして、外苑前にあったパブで働いた。アルバイトとして入ったがすぐに社員に登用された。ここでは2年間弱働いた。22歳の時、その店で知り合った人から、「不動産業をやってみないか。中尾さんならしっかりと稼ぐことができるよ」と誘われた。仕事の内容は賃貸物件の営業。条件は、基本給なしの完全歩合制で、売上の40%が給料となるというものだった。

 中尾氏はそれを快諾してこの仕事に就いた。「なぜ自分が不動産業に誘われたのか、その理由が分かりませんが、若いころから百万ドルの笑顔の男と言われていました」中尾氏ならではの人を安心させる笑顔が、誰からも愛されていたのであろう。

■32歳の時、お好み焼き店を独立開業

 その後、同社と取引があった不動産会社から入社を誘われ、25歳の時に転職した。ここの経営者は中尾氏の2歳年上で当時27歳であったが、既に年商300億円の会社をつくり上げていた。同社でもたちまち頭角を現し、28歳から31歳までの3年間、同社がゴルフ場やレジャー施設を開発した奄美大島に責任者として赴任した。当時常務となっていた。

 東京に戻ったところ、時代はバブルが崩壊していた。この先の人生を考えて、自分の好きな仕事で生きて行こうと、飲食業を独立開業することにした。当時32歳。

 立地は池袋・要町、勤めていた会社が持っていた賃貸物件で10坪、家賃は7万5000円というもの。ここでお好み焼き店を始めた。中尾氏は大阪でお好み焼き店の店長を務めたこともあることから、東京でのお好み焼きには興味があった。「東京には大阪の本物のお好み焼き屋がない」と思うようになり、大阪で修業したことから自信があり「東京で本物を提供しよう」と考えた。

 この店では「自分のやりたい店」を貫いた。自分はカウンターに入り、鉄板を挟んで、常にお客様と対面した。「私の生きる基軸は『礼儀、礼節』です。礼儀、礼節をもってお客様に気持ちよく帰っていただくことを信条としました」。

 店の家賃は抑えられていたが、住宅地の中にあることから、売上をつくるために宅配も行った。お好み焼きの宅配は大阪では一般的なことだった。雀荘やパブ・スナックに、お好み焼きやたこ焼きを宅配する。
宅配エリアはバイクで15分圏内を想定し、店のアルバイトに手すき時間にポスティングをしてもらった。宅配をする先は、一般の住宅だけではなく、飲食店、風俗店ほかさまざまなところであった。

 このような売り方を取り入れたことで話題となり、テレビにも取り上げられ、店はよく繁盛するようになった。この店は20年間営業したが、その間価格を一切上げなかった。スタンダードなメニューは680円の「豚玉」。原価率は23%で収まっていた。

■大手企業飲食店のランチタイムでアルバイトをする

 このようなお好み焼きの繁盛店の主だった中尾氏が、外食企業大手のダイナックで働くことになった経緯はこのようなことだ。同店のご常連の奥様がダイナックの「魚盛」池袋店でパートタイマーをしていて、ある日「大将(中尾さんのこと)、今パートをしている店が人手不足なもので、ランチタイムにバイトをしてくれない?」という。

 中尾氏はランチタイムの営業をしていないので、10日間程度だったらやってもいいかも、と考えた。2012年のことである。そこで、魚盛池袋店で働くようになった。この店にはランチタイムに200人のお客様が訪れるという繁盛店だ。

 ここで中尾氏が驚いたことは、大企業が行う飲食店経営というものだった。同店には同社の幹部クラスが訪れることが多く、個人店の中尾氏には想像のできない投資額やリニューアルに要する金額が聞こえてきた。

 中尾氏はこの時「良い意味でのカルチャーショックを受けた」という。また、中尾氏は当時の店長と気が合い、店長から「アルバイトをこれから継続してもらえないか」と請われた。

 こうして、魚盛池袋のランチタイムで働き(10時~15時)、夕方から自分のお好み焼き店で働くという二重の生活を過ごすことになった。睡眠時間を削るほどの多忙な毎日であったが、魚盛には活気があり、中尾氏が作り上げたチーム感が醸し出されるようになり、とても楽しかったという。このような生活が2年間続いた。

 魚盛池袋店のランチタイムで働くようになって1年がたったころ、中尾氏は店長から「D1グランプリに出ませんか」と誘われた。D1グランプリとは、ダイナックの社内の接客コンテストのことだ。そして、中尾氏はこの「第4回D1グランプリ」で優勝した。

 これがきっかけとなり、魚盛のユニットの長から、ダイナックに入社することを勧められた。「副業はできない」ということが条件となっていたのだが、「50歳を過ぎてからの転職ということは面白いのでは」と思い、自分のお好み焼き店を若い従業員に譲り、ダイナックに入社した。2014年、52歳であった。

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