『おやすみミュスカデ』

～⑨ 思考化声～

　誰もいないのに突然声が聞こえることがある。その声の内容は本来自分が頭の中で考えたことで、それを他人の声と感じるのは思考化声という統合失調症の症状であるそうだ。あの頃のおれの精神状態からしたらその通りなのかもしれないが、あの時の声はそれでは説明がつかない。

「助けて！」

　突然耳元で絹を引き裂く悲鳴を聞いた。それは、聞き間違いようもないほどはっきりした女の声だった。午前4時。空は白み始めている。美国が帰ってこないのでどうしても眠ることができず、それでも妙にさえてしまった意識の中で確かにおれはその声を聞いた。心のザワザワが抑えられない。その時は美国に何かあったのだと思った。

　バカげていると言われそうで人にはあまり話さないが、人生の中でこういうことは何度かあった。特に不吉な出来事への予感がとても鋭いのだ。それで危ないところを避けられたこともあったし、警告を受けてもどうしようもなかった時もある。この場合はどちらなのかわからない。そのまま数分ベッドの上で茫然とした後、とにかく美国を探しにいくことにした。

　少し酒は入っていたがタクシーを呼んでいるヒマはない。車のキーをつかんで立ち上がりマンションを出ようとした時、ちょうどマンションの車寄せにつけられたタクシーを見た。「あぁ、あいつを捕まえよう」駆け寄ると、中から転がり落ちてきたのは今おれが探しに走ろうとしていた美国そのものだった。

「あぁ、拓ちゃん、飲んで、遅くなっちゃって。もう朝だなんて、どうしたんだろう。なんにもしてないのに、ただ飲んでただけなのに、こんな時間......」

　とりあえずおれは安心した。こいつが何をしてきたとしても、無事におれの手に戻ってきた。抱きしめて、そのままキスをすると濃い酒と吐瀉物の不快な匂いが入り混じった口臭に、ちょっと吐き気を催した。それでも、美国をもう一度腕に抱いた嬉しさは止めようがなくて、

「美国、何もなかったんだな。よかった、よかったよ。」

　そう言って頭を撫でると、

「なんにもないやぉ、飲んでただけ。誰もこんな酔っ払い相手にしないから。

　なんだ拓ちゃん心配してたのか？

　......大丈夫。今日はなんにもしてない。なんなら拓ちゃんやるか、これから？」

　美国とは、この後一年で別れることになる。必死でつなごうとした糸はつながらなかった。

　一年後、美国は「好きな人ができたので別れてください」と言って出ていった。その相手は妻子持ちで、初めから無理な相手だった。おれと別れるために無理に作り上げた恋愛の焚き火の中に、よれよれと飛び込む蛾のように消えていった。それが彼女の言う自由で、おれはそれを止めることもできないバカだった。

　でも、それなら誰が？

　何人も思い当たる女はいる。しかし、今すぐに頭に浮かぶのは、この一週間ほど気にかけて探してきたあの女、ミュスカデとあだ名をつけたあの女だった。なにかあったのか？だとしてもおれには何もできない。もう少し事情がはっきりしているなら、助けてと言われればもちろん助けに行く。でも、こんな何もわからない状態で、どこに行って何をすればいいのか？

　あの女の危機だと決まったわけでもないのに、ザワザワした不快感は一向に去らない。息が細くなる。予感という魔物が胸部を締め付けてくる妄想に震えている時、また突然の異音が響いた。

　知らない通常電話からの着信だった。

　午前5時なのに。

「あー、溝口拓也さんの携帯ですか？こちら中央署の萱場と申します。」

「萱場?生安にいた萱場じゃないのか？なんでそんな堅苦しい言い方してんだよ。」

　萱場警部補は生活安全課にいた頃はよく飲み歩いた仲だった。歓楽街の治安維持についてできる限りの協力をし、少しだけ情報をもらっていた。こんなあいさつをしてくる仲ではない。不安がまた足下からはい上がってくる。